紙にのる言葉

思考の断片を言語化して残しておくこと。
難しい言い方をしたが、日記がその最も身近なものかもしれない。

 

少し前はブログブーム、今やSNS全盛だけど、雑貨店や書店に日記帳のコーナーがあって様々な商品が並んでいるのを見ると、やはり紙に言葉を残していくことが良いと感じる人が多いのだと思う。
かくいう私も、そういうノートは用意してる。決してたくさん書けているわけではないけど。

 

先日、紙に言葉を残すことの価値、これを決定的に感じた出来事が最近あった。

机の抽斗を片づけていたら、古い手紙の束の中から、旅先のカナダから父が送ってきた手紙が出てきたのだ。おそらく20年近く前の手紙だ。

 

その手紙には、バンクーバーやスキーリゾートで有名なウイスラーの様子が、ごく簡単ではあるけれど、興奮を感じさせる文章でつづられていた。
旅の感動と興奮、それを自分の子供に「うまく言えない」けど伝えたいという熱が、古びつつある便箋から、長い年月を経た今、伝わってきたのだ。

今すぐにでも、感じたことを伝えたいという父の気持ちが、心に「ずん」と入ってきた。

 

手紙の言葉は、紙の上では物理的なインクの染みでしかないかもしれない。しかし、それが実際、父がカナダで綴り、海を越えて届いたという意味の大きさに今更気づく。

 

インターネットの環境が良くなり、デバイスやアプリケーションも充実して、すぐ相手と話したり気持ちを伝えたり、簡単に、しかもすぐにできるようになった。
デジタルデータとしての言葉は簡単に世界を行き来する。ただ、人間の思考や心としての言葉には、デジタル化できない力を含んでいるのは、おそらく多くの人が気づいていると思う。
そういった中で、紙に綴るという行為、特に手紙は、言葉の力をとても強く発現できるツールだと思う。

 

手紙に限らず日記のような手記も、紙に書いたものは独特な力を放つ気がする。

昔メモ程度に書いた自分自身の日記を読み返すと、それは稚拙なことをつらつら書いていて恥ずかしい気持ちになる。言葉だけでなく、筆圧やにじみ、何か濡れた跡のしわ、そこに言葉に付随してある種の「気」のようなものが、物理的にこもっている。

読み返し触れることで、当時の気持ちや、五感までもが再現される。読み返すという行為も、紙だからノートだから、するのかもしれない。

 

後世に何が何でも記録や言葉を残したいという欲が強いわけではないし、記録魔やメモ魔ではないけど、紙にのった言葉が持つ意味を感じた今、後にどういう意味を持つにせよ、気が向いたときに、何か心に浮かぶ言葉を拾い集めて、書き留めることは続けていきたいと思う。

そして、人にあげる言葉は、可能な限り紙に綴りたいと強く思う。

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