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一度しか生きられない身体だから

習慣になりつつあるランニング。
いつもの市街地では飽きがくるので、休みの午後、快晴の河川敷を走ってきた。
自宅からは少し距離があり、走っていくのはまださすがに厳しいので、車で近くまで行く。広い空の下、川という自然なラインに沿って、とても心地よいランニングを楽しんだ。

ランニングを終え、少し小腹がすいたので、コンビニに入ってパンとコーヒーを買う。車に戻って、パンをかじりながらハンドルを握る。パンのチョコの甘さが口に広がり、乾いたのどに冷たいコーヒーがきりっと流れ込む。

 

刹那、頭の中に、ある言葉が聞こえる。

「一度しか生きられない身体だから…」

いや、当たり前だろう、と思ったのだけど、ほんのり感じる愛おしい気持ちに、車を路肩に止めてこの言葉をメモに残した。そして、反芻するうちに、だんだんと思考の深みを増してくる。

 

そうか、人生も一度しかないけど、この肉体も一度きりなのだ。しかも、老いという変化を進行させながら。
「一度しか生きられない身体」という言葉が、妙に心を動かしたのは、自らの肉体の、物理的な脆さと有限性に気づいたからかもしれない。いや、それも当たり前なのだ。

ランニングをして体を動かした後だからだろうか。

 

次に、身体に入れるもの、つまり食べるものをしっかり選ぶべきだ、という考えが浮かびあがってきた。

ちょうどいい場所にあったコンビニに入って、ずらっと並ぶ商品から、パンとコーヒーを買って、ハンドル片手に胃に入れることが、それが「一度しか生きられない身体」にしてあげることなのか、という自問。

 

「一度しかない人生」という言葉は、もうその意味が感じられないほどに、手垢にまみれているのに対し、「一度しか生きられない身体」という言葉の響きに妙な新鮮感があり、頭の中で何度も反芻した。

生物として、自然の循環の一部としての肉体、その肉体が自然であるよう、健全でいられるようにすることが、病気にならないという意味ではない「健康」というものなのかもしれない。

そういう意味で、工場で作られたパン、パウチの魚の切り身が、そういった意味で健全なのか。安いから、うまいからと言って、量販されている食品を食べることが、健全なのか。一度しか生きられない身体に与える食として、それが自然なことなのか。

 

輪廻転生という考えを受け入れるなら、再度生きることができる。しかし、肉体は今世限り。
その「一度しか生きられない身体」をどうこの世界で動かすか、感じるか。

一度しか生きられない人生同様に、大切なテーマだと思えてならない。