史実と現場感覚を追求した歴史小説『HHhH』

できるだけ主観を排して、歴史の現場に立ち会わせてくれるという変わった歴史小説

ローランド・ビネ著『HHhH プラハ、1942年』は、2010年ゴンクール賞最優秀新人賞受賞、2014年本屋大賞翻訳小説部門第1位と、軒並み高評価を受けているキラキラした小説である。

HHhHとは、Himmlers Hirn heiβt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の略である。ストーリーは、ナチス・ドイツで大量虐殺の首謀者ラインハルト・ハイドリヒの生い立ちと、その暗殺作戦(エンスラポイド作戦/類人猿作戦)を企てる亡命チェコスロヴァキア政府により送り込まれたパラシュート部隊員、ガプチークとクビシュの物語である。

 

この作品は、物語というと語弊があるかもしれないが、ドキュメンタリーと言うのもまた正しくない。しかし、小説といってもフィクションでもない。まさに、こういった著者自身の執筆過程や取材に関する逡巡の断章が、全編にわたって記されているのである。

この点が、この作品の最も特異な点だ。司馬遼太郎の作品も、作中でたびたび私見を述べるということはあるけど、私見というほどカッチリしたものではなく、本当にHHhHという作品の成立過程を、そのまま書いてあるという印象なのである。

その軸をなしているのは、小説の作者が、いかにも歴史の現場を見てきたか、聞いてきたかのように脚色して書いても良いものか?という問いかけである。
歴史小説である以上、史実に忠実にあろうとこだわる著者の姿勢の一方で、史実だけを書いていれば小説としてなりたつのか?歴史小説の本質への鋭い問いかけでもあるのだ。登場人物(歴史上の人物)を、著者の思い通りに動かすような、語らせるようなことをしてもいいのか、自らこの作品の中で問うているのである。この点は、すごく説得力があった。

 

本作を読了して、あくまでも歴史小説という体裁を持ちながらも、できるだけ著者が、いかにも現場を見てきたかのように想像で「脚色」するのではなく、小説としていかに現場を「再現」するか、というスタンスをとろうとしているように感じられた。
いわば著者は小説を書くことで現場に立ち会い、我々読者も歴史の現場(かなり現実にちかい再現)に立ち会っているという感覚を味わうことができる。歴史ものは、著者のスタンスによって登場人物の描き方が大きく変わることがあるけど、本作品ではそういうバイアスはできるだけ取り除かれているといえるかもしれない。

 

こういう特異な性格をもった作品であって、主人公に感情移入して、どっぷりとその世界に入って楽しむという形の小説ではない、実際、最初の方はなかなか入り込めなかった。しかし、ストーリーが佳境に近づくにつれ、俄然ひきこまれていった。あたかもプラハの街の一角に立って、その現場に居合わせるような緊張感や興奮というのを味わうことができた。

 

歴史小説でありながら、ほんとのところ主人公は現在を生きる著者。
歴史の現場へ立ち会わせてくれるだけでなく、歴史小説を書くという追体験をもさせてくれる稀有な小説である。